[IntOrg] Implications of international laws and treaties to sovereign nation states and the collapse of the League of Nations (Professor Hasegawa) (18th April 2012)



2012年度法政大学法学部
「国際機構論」

■ テーマ : 「国際機構とは何か」
■ 講 師 : 長谷川 祐弘 教授  法政大学法学部教授
■ 日 時 : 2012年4月18日(水)  13:30~15:00
■ 場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 307教室
■ 作成者 : 成川 由華 法政大学国際政治学科2年
         勝瑞 優希 法政大学国際政治学科2年
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<I.講義概要>

1. 国際機構の法的性格
 今回の講義で長谷川教授は、国際機構の法的性格、国際機構の設立要因、そして国際連盟の誕生と崩壊に関して説明された。
(1) 国際機構の法的性格
 国際機構の法的性格は、大きく3つに分かれる。それは国家連合説、法人説、機能的統合説である。1つ目の国家連合説では、国際機構を複合国家の一形態と見なしている。これらは、アメリカ合衆国や欧州連合の形態から見て取れる。2つ目の法人説は、加盟国は国際機関の構成員ではあるが、その一部ではないとする。加盟国は互いに監視や政策決定を行うが、決して国際機関の一部ではないのである。そして3つ目は、機能的統合説である。この説では、世界は統合に向かっているとし、国際機関を国家主権、あるいはそれを行使する権限を部分的に移譲された団体とみなしている。
(2) 国際法と国内法
1) 事例
 国際法と国内法の間で起こった実際の問題を基に、国際法と国内法の違いを見出す。1つ目は、国連大学職員解雇事件である。国連大学は、コスト削減のため職員を解雇しようとしたが、その職員はそれを国内法に反するとして訴えた。これに対して東京地方裁判所は、国連大学が国と国際連合の間で結ばれた契約であるため、国連大学内での問題は治外法権にあたるとした。また、ロシア国連職員解雇事件では、加盟国は国連職員に指示できないとの判決が下されている。これにより、国連職員が誰からも指示されないということが明確となった。
2) 法学的アプローチ
 国際法と国内法に関しては、4つのアプローチが存在する。1つ目は、一方が上位にくる上位論である。東ティモールでは、国際法が国内法よりも上位に位置すると大統領が公言した。2つ目は、どちらも同等とみなす等位論である。3つ目は、性質が全く違うため一緒に扱うことはできないとする異質論である。4つ目は、究極的には双方とも一体化しているとする一元論である。
3) 国内法優位説
 ウエストファリア体制下では、国家や主権が最も重要なものとされていた。これに対して、法の二元論説、国際法優位説、法の新二元論説が存在する。
4) 日本での国際法と国内法の位置づけ
 日本では、外務省国際法局が新たにできた国際条約を慎重に調べる。そして、その条約が国会で承認されると、国内法を新たな国際法に合わせなければならない。1971年、コペンハーゲンで男女平等を推し進めた国際会議が開かれた。そこで成立した条約を日本は受け入れ、国内法を国際法に遵守するよう変更した。現在は子の奪取に関するハーグ条約が日本国会で議論されている。ほとんどの国において、国内法/法律と国際法/条約のどちらが上位で、どちらが下位か、あるいは同等かをめぐり議論がなされているが、自国の憲法が最も重要だということは明記されている。しかし、日本では憲法第98条にも憲法の優位性について明記されていない。
5) 国際社会の原則
 国際社会では公正なことを行い、信頼を勝ち取る事が重要である。加盟国は、国連システムの基盤となる原則や規範を守らなくてはならない。世界政府の存在しない無政府的世界において、国際法は世界政府と無政府状態の中間に位置する。

2. 国際機構の誕生
 国際機構の誕生の要因は3つある。1つ目は、国際社会が協力していくためである。例えば、川を挟んで隣接する国同士は、橋を架け、交流をしていくことでお互いの利益を生むことができる。2つ目は、戦争後に国際機関が必要とされたためである。つまり、戦争を起こさないために国際機関をつくるということである。現在では、国際連盟の失敗をいかして国際連合がつくられている。そして3つ目は、グローバリゼーションによる超国家機構が求められたためである。

3. 国際連盟
(1) 国際連盟誕生背景
 国際連盟がつくられた背景には、第一次世界大戦があげられる。この戦争による死者はおよそ1000万人であり、このような悲劇が二度と起きないように、国際的な協力の枠組みを築くことを各国に意識させた。
(2) 国際連盟の理念
 アメリカのウィルソン大統領によって、14の平和原則が宣言された。彼は民族自決と各国の主権の自立を目的とし、旧外交を乗り越え、国際平和機関を設立するということを唱えた。これにより第一次世界大戦の要因の一つでもあった領土問題を解決していくことになった。ベルサイユ条約の国際連盟憲章にも見られるように、国際的協力を推進し、平和と安全保障を達成するために、「戦争」という手段によって解決を図らないというのが国際連盟の理念である。日本憲法も同じく、国際紛争を武力によって解決してはならないという項目がある。このことは、諸国間に公開された正当な環境を維持するために、国際法の理解を作る。そして、互いに組織された国民を扱う際に条約の責務を負い、政治的解決を願うことである。国連憲章第10条には、政治的独立と領土の保全に関して、すべての連盟加盟国は政治的独立の領土の保全を認めなければならない、いかなる場合においても他国の領土に入ることはできない、と記されている。
[1] 領土侵入に対する対処
 侵略が起きた場合には、まず理事会がそれを止めるための手段を勧告する。さらに国連憲章第11条は、あらゆる加盟国がそれを維持するために、何か問題が起こった場合は理事局長に要求を伝え、理事会を招集することが定められている。自国の領土に他国が侵入してきた場合、理事会へ相談し、事態の解決を迅速に行う。
[2] 尖閣諸島における領土の問題
 この問題に対しては軍事的行動をとる前に、国際司法裁判所へ訴え、日本の権利を再確立し、日本の主権を守っていくべきである。

4. 国際連盟の問題点
(1) 大国の不参加・脱退
 まず連盟設立の提案者であるアメリカのウィルソン大統領が、この条約を議会の上院に承認させることができなかった。これにはアメリカの孤立主義が影響しており、国際問題に巻き込まれることを避けたかったためである。また日本やドイツ、イタリアは国際連盟を脱退し、ソ連は遅れて国際連盟に加盟したものの、フィンランドに侵攻したことにより除名されてしまった。こうした大国の不参加により、国際連盟の本来の機能を果たすことが難しくなった。
(2) 列強の自国利益追求
 国際連盟という平和を求める枠組みが発足しているにもかかわらず、当時の列強各国はまだ自国の利益を増やすことを目指していた。
(3) 大国の権限優先
 国際連盟は加盟国すべてが主権を持つ全会一致の原則に基づいていた。しかし、帝国主義時代の名残で、連盟における列強各国の権限は強かった。
(4) 各国の侵略
 ドイツのポーランド侵略や、イタリアのエチオピア侵略、ソ連のフィンランド侵攻などに対して、国際連盟はこのような各国の侵略を防ぐことを果たせなかった。

5. 日本の国際連盟脱退
(1) 満州事変
 日本は日清・日露戦争の勝利によって自信を付け、欧米列強の中国領土獲得のレースに加わった。日本はまず韓国へ、次に満州へ進出した。満州で満州国家を建設し、日本の海外拠点を築いた。そこで日本の試練となったのが、ソ連の南下である。日本は共産主義のソ連の南下によって、中国とソ連が協力することを防ぎたかった。1931年、関東軍は、満州の鉄道を爆破した満州事変を中国軍のせいにし、軍事行動を始めた。これに対し中華民国は国際連盟に提訴し、日本の侵略が憲章に違反すると主張した。この件に関して理事会では紛争閣議案を採決することとなった。日本はこの連盟の決議に反対し、理事会はリットン調査団を派遣した。約半年間に及ぶ調査で、日本の活動は自衛的行為ではなく、満州国は地元住民の自発意志によるものではないとされた。しかし、日本の移住権・住民権・商業圏等は守らなければならないとリットン調査団は主張した。
(2) 各国の日本への対処
 ここで興味深いことは、イギリスが、日本の行為だけを咎めることはできないと言ったことである。決議案として出されたのは、日本への経済制裁や罰ではなく、満州国を中華民国の主権下の疑似政府として置き、国際連盟の主導下において両政府の権限を発揮するというものだった。そこには日本の首都もおくということであった。つまり中国への配慮もあったが、日本のへの配慮の方が重視されたということである。日本はイギリスなど列強が味方にいると考え、強硬な姿勢を貫いていた。しかし、1933年に満州国建国の否認決議が採択されると、日本は経済制裁を恐れ、ついに連盟を脱退した。

6. 日本の第二次世界大戦への道のり
 日本がなぜ第二次世界大戦へと向かったのか考えたとき、ターニングポイントとなったのは「国際連盟脱退」である。日本は国際連盟脱退を名誉なものとしていたが、実際は違った。1932年、日本の満州事変の行為を話し合うため、ジュネーブで総会が開かれた。そこに日本の代表として派遣された松岡全権大使の任務は、あらゆる手段をつくして、国際連盟に残ることだった。満州問題における日本の行為を認めることは、国際法違反の侵略を認めることであり、総会の理念を崩壊させると考えられた。一方で、イギリスは日本への露骨な批判を避けたため、日本は自らの行為を正当し、列強が味方にいると思っていた。列強各国は日本に対して友和的態度を望み、中国へ冷遇的態度を取った。当時の列強は1929年の大恐慌のせいで自国の利益に固執し、世界は脱帝国主義的な構造を模索していた。イギリスは日本の強気な姿勢に不安を抱き、決議案の受け入れを支持した。しかし日本は、当時低迷していた国内世論を手に入れるために受け入れを拒否した。さらに問題に拍車をかけるように、関東軍が新たな軍事許可を求めてきた。後に総会で決議案が通り、松岡全権大使は脱退を宣言した。

7. 国際連盟の教訓
 国際連盟の成果と教訓を見ていく時、国際連盟による安全保障は効果的であったのか、確立された理念や原則は何だったのか、日本の外交戦略はどうだったのかという着目点が挙げられる。第二次世界大戦が勃発したことを考えると、国際連盟は役割を果たさなかったと言う事ができる。しかし、国際機関が世界の国々の考えを反映していることは間違いない。重要な理念は、歴史の流れである。今の日本はアジア諸国を軍事力で侵略できるだろうか。ある意味、日本は植民地解放の役割を果たしたと言える。しかし、その国の国民を考えた政策を行うべきであり、それを国際機関が行っていけば、日本は尊敬される国となっていたはずである。

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<II.質疑応答>

Q. 国際連盟から学べる教訓とは?
A. 日本やイタリアそしてドイツが、領土拡大のために隣国との戦争を始めた。また米国不在により国際連盟がその役割を十分に果たせず、集団安全保障が機能しなかった点に問題があった。