【国際機構論】2011年5月24日 ウェストファリア体制と国際機構の意義とは?(長谷川教授)

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2011年度法政大学法学部
「国際機構論」

■テーマ : 「ウェストファリア体制と国際機構の意義」
■講 師 : 長谷川 祐弘 法政大学教授
■日 時 : 2011年5月24日(火) 13:30~15:00
■場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 407教室
■作成者 : 武正 桂季 法政大学法学部政治学科2年/江沢 愛美 国際政治学科2年

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<Ⅰ.講義概要>
1.導入
 国際機構ができる過程で、ウェストファリア体制が何を意味するか、そしてリットン調査団の勧告が日本と世界に意味した事を学ぶ。

2.ウェストファリア条約の成立
 13~17世紀にかけて、ヨーロッパではローマ帝国時代からのカトリック教会が基盤の社会が続いていた。その特徴として、宗教的権威としてのローマ教皇権が存在した。この役割としては、精神的な面としてカトリック教会による思想的な支配が挙げられる。また、政治的権威としてローマ帝国の皇帝権があった。この役割として、安全保障的、政治的な面の意味も内包しており、この権威の行使によりローマ帝国による支配体制が確立されていた。この体制の末期には、ルネサンスという文明革命によって都市間の通商や貿易が増えた。また、マーティンルターによる、カトリック教会への挑戦が始まる(プロテスタントによる)。同時に安全保障、政治体制に対する挑戦も始まった。これらの流れは、今までの神聖ローマ帝国の体制に対する挑戦であり、教皇権・皇帝権に対する挑戦という面も含んでいる。そして、30年戦争に繋がっていく。これは、1618~1648年においての広範囲の地域における戦争であった。この戦争は宗教戦争という側面も持っているが、ヨーロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力間の国際戦争という側面もある。30年戦争が終わった1648年、ウェストファリア条約が結ばれる。

3.ウェストファリア条約の内容・意義
 ウェストファリア条約は今までの統治構造を変えることになり、それぞれの国(地域)が主権を持つことになる。主権在民と領土の存在の原則が誕生し、国民主権国家体制の確立である。(現代の民主主義の体系には程遠い)このウェストファリア条約の意義としては、初めての国際的な講和会議・条約ができた。キリスト教に対する歯止めのために宗教の緩和、カトリック的な普遍的な思想がなくなることにより様々な価値観が誕生する。これを機会として、各国で個人の存在を認めるようになり、主権国家間での取り決めが締結されるようになる。

4.産業革命から第一次世界大戦へ
 18~19世紀にかけヨーロッパ各地で産業革命がおこる。それぞれの国の産業革命により、海外進出をする機会が増え、今まで以上に国際的な基準や条約が必要になっていった。その中には万国電信連合、万国郵便連合、国際鉄道連合、ICRCなどがあげられる。しかし、この状態を現実主義者たちは「国家は人間と同じように、自分の勢力と利益を広げるために追求し続けている。それをやめることはない。」とした。
この状態は第一次世界大戦まで続いていき、具体的に言うと、ドイツはフランス・イギリス・そのほかの国々の今までの体制に対して、自分の領土や利益を広げるために戦い(チャレンジ)を仕掛けていく。

5.アメリカの存在と平和14原則
 第一次世界大戦の中で、アメリカが大国として勢力を行使するようになる。戦争の終結によって、軍事力だけではなく、自由・民族自決の国の文化の考えが提唱された。その理由としては、米国がヨーロッパからの移民の国であるためであった。ウッドロー・ウィルソンの平和14原則へと生かされていき、それを反映してできたのがヴェルサイユ条約である。14の原則の内容として、秘密外交の禁止、海洋の自由、自由貿易、軍備の縮小、植民地支配の公正解決、ロシア問題、ベルギー再建、アルザス・ロレーヌ問題、イタリア問題、オーストリア・ハンガリー帝国問題、ルーマニア・セルビア・モンテネグロ他のバルカン諸国問題、オスマン・トルコ問題、ポーランド問題、国際平和機構の設立が挙げられる。国際平和機構の設立はそれまでの国際的な問題に対処するために、国際連盟を設立させるというものであった。国際連盟発足時は42カ国の国々が参加した。

6.国際連盟の成立
 国際連盟は1917年に成立し、総会、理事会、事務局、常設国際司法裁判所(Permanent Court of Justice)、国際労働機関(ILO)の5つから成る。ILOは当時、ソ連の誕生に伴い、労働者の重要性が認識されて労働問題を扱う国際機関としての誕生となった。
 連盟の崩壊の原因としては、日本、ドイツ(第一次世界大戦の賠償金を命ぜられた)、イタリア、南米諸国などの多数国家の脱退、ソヴィエト連盟の除名、米の上院での承認否決による、アメリカ合衆国の不参加が挙げられるだろう。そして、構造・機能的要因としては全会一致制と国連軍が存在しなかった、要するに経済的な制裁しか行う事ができなかった、という点が挙げられる。また、日本が脱退に至ったのは、柳条湖事件(1931年9月13日)による、満州事変の契機であった。
柳条湖事件の1年後に、中国の日本提訴によって、リットン調査団が派遣された。
調査の結論として、日本軍の活動は自衛的行動ではなく、満州国は、地元住民の自発的な意思による独立とは言い難く、しかしながら、日本が持つ権益、居住権、商権は尊重されるべきである。調査団は日本側への配慮も払いつつ、現地の自治政府を設立し、国際連盟の下で行政権を行使し、特別治安機構を組織して、日中両国とソ連は不可侵条約を結ぶべきである、という勧告を出した。
 国際連盟の成果と教訓として、国際連盟における集団安全保障の試みはどうであったのか。そして、確立された理念や原因があったとするならば、それはどのようなもので、崩壊の原因は何だったのか。また、それらによって学ばれた教訓は何だったのか、の4つを考える必要がある。

7.国際連合の成立
 国際連合は、4つの会議によって設立が合意された。まず、1943年第二次世界大戦後に国際的な平和機構再建が必要である為、モスクワ会議が開かれ、その翌年の1944年にダンバートン・オークス会議が開かれ、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする普遍的国際機構を作ることが合意された。翌年1945年2月ヤルタ会談で「5大国一致の原則」が合意されたが開催されて、同年の4月から、サンフランシスコ会議が開催されて、国際連合憲章に署名をし、設立が決定された。国際連合は、1945年10月24日に正式に発足した。
また、設立当時に、国際連盟の教訓を生かして、国際連合の組織と権限を定めた。1つ目は、超大国になった米国の参加を確保し、安全保障理事会に力を持たせ、大国に拒否権を持たせる。2つ目は、集団安全保障の確立。要するに一カ国に対して信頼がある場合には、一致団結して阻止すること。例えば、1993年、イラクのクウェート侵攻があげられる。3つ目は民族自決の尊重、要するに植民地支配をなくすということである。4つ目に、経済・社会・人道問題にも力を入れているという点。そして5つ目は、人権擁護である。
 国際連合の今までの経験として指摘で来ることは、1つ目に国連軍が存在しないこと。湾岸戦争などを見てもわかるが、アメリカ中心の多国籍軍を編成していた。2つ目に、安全保障理事会の麻痺がある。米ソの対立の時、お互いが拒否権を行使してしまう。3つ目は、平和維持活動の変化が挙げられる。

 国際連合の目的と役割として、次の3つが挙げられる。1つ目は、国際の平和及び安全を維持すること。これは、国際的に平和に対する脅威が発生した場合に、平和的手段且つ国際法の原則に従って行う、ということを意味する。2つ目は、諸国間の友好関係を発展させること。3つ目は、人権及び基本的自由を尊重するように奨励し、国際協力を達成することである。
国際連合は、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の6つの組織からなる。総会は、全加盟国で組織されていて、国連が関与する問題を討議する場である。安全保障理事会は、米・英・仏・中・露の5カ国が常任理事国で、総会において2年に1度選ばれる10カ国の非常任理事国で構成されている。また、常任理事国である5カ国は拒否権を持っている。信託統治理事会は、1994年までに、全ての信託統治地域が自立または独立を達成したことから、活動を停止している。国際司法裁判所は、国家間の紛争を解決し、法律問題に勧告的意見を与えている。裁判官は、国籍の違う9年任期の裁判官15人で構成されている。最後に、事務局は、国連の日常業務を遂行する、又は他の機関が決定した計画・政策を実施する機関のことである。第8代事務総長は、藩基文氏である。
国際連合は「規範と規律(norms and standard)」を作る役割を負っている。例えば人権や原子力開発においての安全性の規範をしっかりと決める必要があるのだ。