[IntOrg] New International Organizational Structure in Post-W.W.II (Professor Hasegawa) (25th April 2012)



2012年度法政大学法学部
「国際機構論」

■ テーマ : 「二つの大戦から何を学び、どのような枠組みを作り上げたか」
■ 講 師 : 長谷川 祐弘 教授  法政大学法学部教授
■ 日 時 : 2012年4月25日(水)  13:30~15:00
■ 場 所 : 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎 307教室
■ 作成者 : 内山 靖己  法政大学法学部国際政治学科2年
         横田 晃平  法政大学法学部国際政治学科2年

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<I.講義概要>

1. 国際連盟の挫折から学んだ教訓その一
(1) 国際連盟の成果
 国際連盟は30件ほどの紛争、領土問題を処理してきた。その中で一番有名なのが、フィンランドとスウェーデンの間での領土問題である。これは現在で言う、日本と中国の間での尖閣諸島問題に似ている。
(2) 集団安全保障の失敗
 国際連盟には、侵略行為に対する抑制力の欠陥や民族自決権の軽視、植民地体制の継続があり、これらの問題点が挫折の要因となった。また、新しく登場したナショナリズムとイデオロギーの対立、世界的な経済恐慌なども大きな崩壊の要因となった。
[1] 第一次世界大戦後、西欧各国はドイツから植民地を奪ったが、それに対しイギリス・フランスは植民地体制を維持した。

2. 第一次世界大戦の分析
(1) 3つの分析レベル
 ここからはジョセフ・ナイ・ジュニアの3つの分析レベルから、なぜ第一次世界大戦が起きたのかを考えてみる。第一の視点は構造・システムレベルの問題である。ここではバランスオブパワーが行き詰ってしまった事が挙げられる。第二の視点として国内レベルから見ると、ドイツの国内政治の影響が挙げられる。さらにナショナリズムの台頭によって、帝国が崩壊した事も大きな要因となった。そして第三の視点は、個人レベルである。第一次世界大戦では個人のレベルはさほど重要ではないが、個人の指導者の性格によって戦争は異なるとされている。
(2) 構造レベルの問題
 今回の戦争は、構造レベルが重要である。ここではドイツの重工業の発達、軍事力の増強、世界第二位の海軍力が、イギリスにとって脅威となったとジョセフナイは論じている。そこでイギリスは、ドイツに対するバランスオブパワーを確立する為に、フランス、ロシアと協調関係を結んだ。これによりクラシックなバランスオブパワーのゲームが始まった。このことによって、同盟システムの硬直性が増大してしまった。
[1] 現代を例にとると、アメリカが中国の拡大を監視する為に、フィリピンや日本と訓練を行う事が、同盟国のシステムの硬直化を起こしているという事である。

3. バランスオブパワーと集団安全保障
(1) バランスオブパワーが維持したもの
 バランスオブパワーは、平和や国家の独立を維持してきたのではなく、ただ無政府的な国際システムを維持してきたと言える。これは新現実主義者のケネス・ウォルツが言った「アナーキーのもとにおいても、そこには自然状態と同じように、システム・法則がある」という事である。
(2) バランスオブパワーから学んだもの
 第一次世界大戦の三国同盟と三国協商のように、バランスオブパワーはにらみ合いが起こる。そして一度均衡が崩れると大戦争が起こる。そこでそれを教訓として集団安全保障の概念が作られた。
(3) 集団安全保障とは
 ある一国がどこかの国を攻撃した場合、他の国々が集団でその国に制裁を加えるという概念である。

4. 国際連盟の挫折から学んだ教訓その二
 第一次世界大戦後、バランスオブパワーから集団安全保障に向かうべきだという教訓が出来た。そこには欧州の協調から続くバランスオブパワーのゲームを続けていても、同じ過ちを繰り返してしまうという懸念があった。そこでウィルソンが安全保障の原則において主権と国際法を基盤とし、集団安全保障を作り出そうと考えた。

5. 第二次世界大戦の3つのレベルの分析
(1) 個人の役割
 個人の役割から見ると、第二次世界大戦の第一段階では、ヒトラーでない指導者でもヴェルサイユ体制の打破をしようとするだろうという反実仮想が言える。ただ、第二段階以降になると、ヒトラーの西洋の罪悪感につけこむ手腕やイデオロギーが大きな意味を持ち、彼の人種差別的イデオロギーもまた第二次世界大戦を決定づける要因となる。したがって第二次世界大戦では、第一次世界大戦の時と異なり、個人の役割が決定的要因の一つと言える。
(2) システムレベルの問題
 システムレベルでは、1点目として、ヴェルサイユ条約がドイツにとってあまりに厳しすぎるものであり、それがナショナリズムを生んでしまったという事、2点目として、大国のバランスオブパワーへの不参加が結果的にドイツの拡張主義を止められなかったという事が挙げられる。さらに3点目として、ドイツの修正主義国家並びに極右、極左のイデオロギーが、諸外国とのコミュニケーションを困難にしたという事があげられる。
(3) 国内レベルの問題
 欧州の協調の時点ではイデオロギーは介在してこなかったが、ルソーやマルクスなどによってイデオロギーが登場すると、そのイデオロギーの論争によって、外交調整が困難になってしまった。また1929年のアメリカ発の世界恐慌は、各国の保護主義的政策を生み出し、経済を麻痺させた。これによって大量の失業者が生まれた事が、ナチ党の飛躍の要因となった。さらにアメリカは、ヨーロッパの戦争に参加したくないという世論によって孤立主義となり、真珠湾攻撃をされるまでヨーロッパのバランスオブパワーに参加しなかった。

6. 第二次世界大戦後の国際機構
(1) 国際連合設立にむけて
1) 設立準備会議1943年~1944年
 最初のモスクワ会議では、当時のアメリカ国務長官のハルが、普遍主義で全ての国の主権平等を確保しようとした。二番目のダンバートン会議では、国連の主要な構造を、全加盟国による総会と大国による理事会とする事を定めた。特に理事会は新しく作る国際機関にアメリカを入れる為に設けられた。これとほぼ同時期にブレトン・ウッズ会議も行われた。ここでは経済社会問題の対処が話し合われた。とりわけ戦後の国際的な枠組みとして、経済問題に対処できる機関を作る事が話された。そして世界銀行、国際通貨基金、GATTがブレトン・ウッズ機構として作られることとなった。
2)  設立準備会議1945年
 戦争も終盤にさしかかる1945年、チャーチル・ルーズベルト・スターリンの3人の指導者によってヤルタ会議が開かれた。チャーチルは世界平和の維持の為には、大国の責任というものを明確にする必要があると唱えた。ルーズベルトは恒久平和の保証人として、国際平和部隊を作るなどと唱えた。これらに対してスターリンは大国のリーダーシップと共に大国の拒否権も必要であると唱えた。またソ連は3票欲しいと主張して譲らず、白ロシア・ウクライナを加えて3票得た。続いて6月にサンフランシスコ国連創設会議が行われ、50カ国とポーランド(ポーランドは後に加わる)の51カ国が創設国となった。

7. 第二次世界大戦後の国際機関の役割
 国連は集団安全保障システムを持って、植民地の独立の助成をし、そして経済社会人道問題に対処していくという役割を持った。またブレトン・ウッズ機構では、経済の復興や開発に加え、IMFによって金融の安定を図ろうとした。さらに地域機構というものを助成して、安定を図り開発統合を行おうとした。

8. 国際連合の目的と原則
(1) 国際連合憲章の三つの目的
 国際連合憲章には目的が三つある。それは国際平和を維持すること、人民の同権及び民族の自決の尊重(self-determination)をすること、そして経済的、社会的、文化的、つまり人種や男女の差別なく人間は平等に同じ権利を持つことである。これら3つの目的に向かって協力していくことが大切である。
(2) 7つの原則
 加盟国の主権は平等であり、平等な地位にある。また、加盟国は国際平和を危うくしてはならない。さらに武力による威嚇、または武力の行使を慎まなければならない。しかし、原則と言っても各国が遵守しているわけではない。

9. 国連:歴史の教訓
 歴史の教訓を生かした新たな試みでは、五大国による承認と批准を必要となったことがあげられる。総会は、連盟の時代の全会一致の原則から多数決によって議決するように変わった。また安全保障理事会において、五大国は拒否権を持つようになった。新加盟国の承認や、国連事務総長の承認には、まず安全保障理事会の勧告が必要である。さらに、経済社会理事会を作り、経済社会問題に積極的に関与していくはずだったが、現実はブレトン・ウッズ機構との兼ね合いでうまく機能していない。

10. 国連創設時の構造
 1945年当時、常任理事国は中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、フランス、イギリス、アメリカとなっており、2012年では、中国、ロシア、アメリカ、フランス、英国とされている。ただし、常任理事国でないと要望が入ってこないことや、国としての主張を示すことができない問題がある。また2006年には人権理事会が創設された。さらに、雅子様のお父様が裁判長をしている国際司法裁判所がある。

11. 国連加盟国の拡大
 加盟の条件として憲章第110条に五大国の承認と総会の半数の承認が必要とある。さらに、平和な国として国連に携わっていかなければならない。日本は当初なかなか国連に入ることができなかった。しかし、1956年にモンゴルが入るということで加盟が認められた。1960年代にはアフリカなどの独立国が加盟した。1992年、ソ連の崩壊によりできた国々が国連に加盟した。

12. 国連:政府の代表者の認定
(1) 代表者を決定する際、総会の信任状委員会において信任状が発行される。信任状は国家元首か外務大臣による署名が必要である。
(2) 中国の代表権の問題
 国連憲章に書いてある通り、アメリカは、常任理事国は中華民国であると主張し、審議棚上げによって1960年まで審議しなかった。その後重要事項案であるとして、さらに10年間審議が見送られた。そして1971年、ようやく逆重要事項案が採択され、中国人民共和国が中国を代表することになった。

13. 冷戦時代の国連
 冷戦中にはインドシナ戦争や第1・2次中東戦争が起こった。これらには、フランスとイギリスが関わっていた。さらにはカシミール戦争や朝鮮戦争も起こった。そして、アジア、アフリカ各国が一気に国連に加盟し、加盟国の数が増大した。

14. 平和維持活動3原則
 平和維持活動には、紛争当事者の合意、中立、自己防衛の為のみの武器使用、という原則があるが、ルワンダのジェノサイドや、バルカン問題を防げなかったので改善されている。

15. 国連職員の任務
 国連憲章第100条では、国連職員はどの国からの支持も受けてはならず、世界のためにその地位を維持していかなければならないとある。さらに、国連の職員にはノーブルメイアー原則によって世界一の国家公務員の待遇が与えられる。

16. ブレトン・ウッズ体制
 ブレトン・ウッズ体制とはアメリカのブレトン・ウッズにおける国際会議で作成された新しい国際通貨体制であり、固定為替相場をとり、1ドル360円として世界の経済を運営した。主な機関はIMFと世界銀行の二つであり、主な目的は、1929年の世界大恐慌の再来を防ぐことである。